かなり前の話になりますが、見ず知らずの人から思わぬ親切を受けたことがあります。
小学生だった子供を大阪見物に連れて行き、道頓堀橋をそぞろ歩いていたときのことです。
(お食事中の方はここは飛ばして下さい〜)
「ママきもちわるい・・・」
B級グルメを食べすぎたせいか、子供が橋のど真ん中で突然嘔吐したのです。大阪ミナミの道頓堀橋といえば観光スポットで人通りの多いところ。 親が責任をとらねばと、持っていたティッシュとビニール袋で、そそうの後始末をし始めた私でした。
橋の真ん中で通行人が奇異の目で通り過ぎる中、手持ちのティッシュが底をつき、仕方なくタオルを使って掃除していたところ、ふと現れたのが一人の青年です。
「これ、良かったら使って下さい。」
手渡されたのは、わざわざ近くで買ってきたばかり風のティッシュペーパー。
とっさのことで「お支払します。」のお礼もそこそこに、その人はすぐ無言で立ち去りました。
そのティッシュには、とても助けられました。
けれどティッシュ以上に私を助けたのは、ジロジロ見られた気恥ずかしさ、汚物を捨てにいった公衆トイレのぞっとするような汚さと、子に抱いてしまった苛立ちを清め洗い流してくれた、その人の優しい気持ちだったのです。
その方の思いやりある行為には、今でも感謝しています。お礼を伝えるために新聞に投書しようかなども考えました。けれどこんな優しい心を持った人は個人的なお礼など望んでいないのではないか、そして私にできることはひとつだと思いました。
自分が受けた「ランダム・アクト・オブ・カインドネス」をまた別の誰かに渡すこと・・・。
日本的にいうと「恩送り」ですが、アメリカでは「ペイ・フォワード」、または「ランダム・アクト・オブ・カインドネス」と呼ばれていると知ったのは今年になってからです。
「どうすれば世の中を変えられるのだろう。見返りを求めない思いやりあるアクションをひとつづつ。」 モーガン・フリーマン
「一日一善」のようなお説教めいたものでもなく、宗教がらみでもありません。「名乗らない親切」がランダム・アクト・オブ・カインドネスとなります。
ランダム・アクト・オブ・カインドネス=ペイ・フォワード
Random act of kindness [ランダム・アクト・オブ・カインドネス]とは、直訳では「無作為の親切な行い」です。
見知らぬ他人に対して、思いがけない時と場所で、名乗ったリ見返りを一切求めずに親切な行いをすること
「ペイ・フォワード」も「ランダム・アクト・オブ・カインドネス」も同じような意味合いになっている
『ペイフォワード』という映画もあります。
私の知るかぎり、団体や組織はなく、QuoraやRedditなどのSNSでひとつのトピックとして存在していて、有志が静かに呼びかけあっているような感じです。そこでは「世の中捨てたもんじゃない」と思える心暖まるエピソードが掲載されていて、読むにつれジーンときます。
例えば人から厚意を受けてその相手にお返しをすると、その厚意は当事者間のみで完結してしまいます。私たちの生きる社会ではこのようなことが繰り返し行われています。
ところがランダム・アクト・オブ・カインドネスやペイ・フォワードがそれと違う点は、
対象を特定せず名乗らず、見返りを求めずに小さな善意や思いやりある行為をして、バトンを渡すように繋げていくことです。
ひとりひとりが一つでも行えば優しさの連鎖がどんどん広がっていくというものですが、押し付けがましいものでもありません。
見知らぬ誰かへのこんな思いやり・後ろの人の料金を支払う
ランダム・アクト・オブ・カインドネスは私の経験のように、目の前の困っている人に手を差し伸べる以外に、例えば献血や寄付・ボランティア・捨てられた犬猫の世話をするなども含まれるのですが、その他の例を抜粋します。
- スタバで後ろに並んでいる人にコーヒーを買う
てんかんの病で18歳の娘さんを亡くしたご両親が、亡くなる前日スパイス・ラテ飲みたがっていたことを偲んで、地元のスターバックスにいた客全員にラテをふるまったことが発端でした
それを知ったスタバ客が、故人を追悼し、また見知らぬ誰かの幸せを願って次々と、自分の後ろに並んだ人にコーヒーを買う日が続きました
このことがSNSで拡散されて全米のスタバやドライブスルーで、後ろの人にコーヒーをおごるランダム・アクト・オブ・カインドネスが広まっていきました
- 有料道路の料金所で後ろの誰かのために料金を払う
サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジでは、祝日になるとこうする人が続出
前の車に支払ってもらった人は、また後ろの人のために支払うことが多いとか。
「失業中の人はスーツの料金無料!」の貼り紙をだすクリーニング店
行列に並んでいるとき、もし急いでないなら割り込みさせてあげる(特に子供連れの場合)
使わないチケットやクーポンがあれば必要な人のために掲示板に貼っておく
荷物が重そうで困っていそうな人がいたら持ってあげる
自転車を生活の足にしている人「空気入れとパンク修理セットを常に自分の自転車に携帯しておき、道で誰かが困っていたらいつでも修理する」
ホームレスの人にお金でなく、その時必要そうな何か例えば暑い日なら冷たい飲み物などを差し入れする
他にもこんなストーリーがありました。
- 子供が入院している病院で、何日も駐車したままだったマイカーにこんなメモが・・・。 「さぞかし大変でしょう、この無料パーキングチケットをどうぞ。どうかお大事に」
入院の付き添いで帰れぬ日が続いていた母親は、これを見て疲労が吹っ飛んだそうです。
- 自殺者がでて悲しみにくれる高校。ある日一人一人のロッカーに手書きのポストイットが一枚づつ貼られていました「あなたはひとりじゃない」「あなたは愛される価値がある人」
優しさをもらったら別の誰かに返したくなる
「小さな親切、大きなお世話」、「タダより高いものはない」、「情けは人のためならず」、「ギブ・アンド・テイク」etc...
自分さえよければいいとか、何かしてもらったらその裏にあるものを考えてしまったり、また自分が何かするときは偽善のように思われはしないか、などと躊躇してしまったりする世の中です。それに善意の行為をするのはちょっとした勇気が必要で、考えすぎてしまう部分があるのも事実です。
人が信じられなくなるような経験をしたり孤独を感じる時は、誰にも頼らず自分ひとりで十分生きていけると思うことがあります。私にも辛い時がありました。
けれど年齢を重ねていく度に、どんな状況でも実は目に見えない部分で見知らぬ誰かの支えがあった、無力な自分でもここまで生きてこられたのはそのおかげではないかと思い始めたのです。
見返りを一切求めない、無条件の愛のような「何か」はいつもそばあって、必要なときに人やモノとなって姿を現してくれていたのだと。そして貰った分以上に自分も返していかなければと心に誓う、そのような感じです。
さすがに日本のスタバで後ろの人にコーヒーをおごる勇気はなくても、見返りを求めない「ランダム・アクト・オブ・カインドネス」の精神を持っていれば、例えば人の嫌がることをしたり、何かを気持ちよく譲ったりするなど、今の自分にできる範囲でならやれることがある気がします。
最後に
「山のあなたの空遠く 幸(さいはひ)住むとひとのいふ」
この詩のように若い頃、私は幸せというものは遠い彼方にあるもので、何か大きな事を成し遂げた時に得られると思っていました。大学生になったら、望む仕事に就いたらという風にです。けれども人の欲望は限りなく、確かに目に見える幸せは得たかもしれないのに、いつまでたっても思い描く幸せは遠くにあるままでした。
本当は青い鳥のように近くにいて「今この瞬間」にあるのだと気づいてから、ようやく心の渇きのようなものが癒されていったのです。
そしてランダム・アクト・オブ・カインドネスのように、自分以外の誰かをちょっと幸せにすることでも得られるとわかった今、遠いどこかで、誰かが誰かの幸せを願って飛ばした風船が、人の優しさの連鎖となって届けられていることに感動を覚えます。
皆様にも小さな幸せの風船が届くことを祈ります。最後までお読み下さりありがとうございました。
写真は冬の神戸ハーバーランドの夜景です!冬季限定アイスリンク